宇宙開発に打ち込んだ約30年


6期 中島 淳(NEC)


はじめに

 私は、昭和49年3月に和歌山高専電気工学科を6期生として卒業し、同年4月にNECに入社した。入社後宇宙開発事業部に配属され、その後一貫して宇宙開発に従事している。 平成13年10月に、NECと東芝の宇宙部門が合併し、NEC東芝スペースシステム株式会社が設立されたため新会社に出向し、現在同社のプロジェクト推進本部、通信・技術衛星グループに所属し、役職はプロジェクトマネージャである。職場は、入社以来、横浜市都筑区にあるNECの横浜事業所に勤務している。

 私は入社以来、一貫して宇宙開発関連業務に携わっている。宇宙開発は、一般的には特殊な分野と見られており、私も好きな道であったため、今までその分野に従事できたことは幸いであった。入社後、約7年間は人工衛星の追跡管制を行う地上設備の設計部門に所属した。その後、衛星のシステム設計を行う部門に移り、放送衛星3号(BS-3)の受注活動、設計、インテグレーション、試験、打ち上げ、軌道上の運用と、衛星の開発に関する「揺りかごから墓場まで」の全業務に従事した。その後、海外の衛星メーカに対する受注活動等のマーケッティング活動を経て、現在、ロシアから受注した、通信衛星搭載用の通信システムのプロジェクトマネージャとして、プロジェクトを牽引している。

 昭和49年に入社した頃は、宇宙開発は日本でもマイナーな分野であり、社内でも、当時はマイクロ波通信や、衛星通信などが花形であった。私も第一希望は、これらの分野であったが、第2希望に宇宙と書いただけで宇宙に配属になった。結果的にこれが良かったかもしれない。その後、会社が理科系学生の就職先として注目され、一時入社希望者の約60%が宇宙開発事業部を希望する事にもなった。当然、優秀な学生が集まり、空前の高学歴部門となっている。そんな中で、存在感を示すのは相当の苦労があるが、要は仕事ができるか否かが評価の対象であり学歴は関係ない。

 宇宙分野での我々の仕事は、人工衛星とその関連機器の製造であるため、理論に基づいた高度の技術が必要となる。それらの技術はハードウエアに立脚した発想が必要であり、机上の理論だけでは成り立たない。理論と実践の両輪をバランス良く組み合わせる事が必要であると思う。私は、理論に基づき物事を考え、かつ頭でっかちになることなく、現場に足を運ぶことを厭わない、実践的技術者になることを目指しており、その素養を学生時代に培ったと思っている。さらに、クラスメートに刺激され、学んだ英会話が大きく役に立った。5年間の在学中は、悠々と時間が流れており、その時々興味を持ってゆったりと取り組んだことが社会に出て役に立ったと思う。社会に出てからは時間の流れが猛烈に早くなり、もはや学生時代のようなゆったりとした時間の流れを体験することは望むべくもないが、学生時代の得難い体験が今の自分の基礎となっていると感じる。

 幹事から依頼されたのは、1000字程度のレポートであったが、それを遙かに越えた長文になってしまった。以下に私の入社以来の主要な業務を紹介する。在学中の後輩諸君の参考になれば幸いである。



第一の波

 入社以来、様々なプロジェクトに従事した。最初に所属した部門は、人工衛星の追跡管制を行う地上局の設計開発部門である。ここで、最初に手がけたのは、小笠原の父島に設置したロケットテレメータ受信設備の復調記録系である。父島にも入社間もなく40日ほど出張し、現地調整作業を行った。

 次に手がけたのは、オーロラを観測する衛星に制御信号を送信し、またテレメトリ信号を直接受信する受信局である。この設備はカナダのチャーチルに設置することになり、私がシステム担当として指名された。理由としては、学生時代から多少英会話をやっていたため、入社後受けた英会話試験の成績が良かったことと、会社の山岳部の一員であり、冬山にも何回かいった経験があったことから、極寒の僻地でも何とか生きていけるであろうとの理由からであった。現地に到着してみると、零下28度の寒さに頭が締め付けられたこと、白熊を遠くに眺めたこと、寒さに震えながら見た満天のオーロラに感動したことを記憶している。

 その後、気象衛星ひまわり3号機の受信局を大西洋上の孤島アセンション島に設置するプロジェクトのまとめ役を指名された。現地作業のため同島に3ヶ月程度滞在した。この時の指名理由は、カナダで海外経験が多少あったことと、やはり僻地でも何とかやっていけるであろうという、図々しい性格と体力面での理由からであった。本プロジェクトでは、初めて海外に一人で出張させられた。NASAのゴダードスペースセンターへ単独出張した時、ワシントンDCのナショナル空港(現レーガン空港)に到着した際、手荷物が別の空港に誤配され受け取れなかった。手荷物紛失は始めての経験であり、単独渡航であったため、まさに泣きっ面に蜂の状態であった。しかも空港に到着したのが午後9時頃であり、一人レンタカーを借りて、初めての地で地図を頼りに郊外のホテルまで迷いながら到着したのが午前1時過ぎであった。今思えばたいしたことではないが、その時は、このまま生きては帰れないのではないかと、大きな不安を感じたのもであった。出張前は、NASAとの打ち合わせがもっとも気掛かりであったが、無事ホテルにたどり着いたときには、打ち合わせがなぜか簡単なものに思えた。

 これらの、地上装置を担当した時期が私にとってそれからの会社生活を行う上で様々な影響を与えた。技術的には、DCからRFに至る広範囲な周波数帯を担当したこと、さらに、電源からアンテナに至るまでの広範囲の機器を担当できたこと、また、回路設計から、システム設計(特に通信系システム設計)を担当し広範囲の技術の習得が行えたことや、仕事を通じ諸先輩から会社生活を行う上での様々なことをたたき込まれたことが幸いした。さらに、自分は詳細な回路設計よりも、システム全体をまとめる方が向いているといった、自分の適正を知ることができた。この7年間が今後の人生の中に大きな影響を与えたことはさることながら、この時期に結婚もし私生活においても特記すべき青春の1ページとなった。 昭和56年8月に気象衛星3号の打ち上げが成功し、追跡管制を行ったアセンション島から帰国した私には、新しい仕事が待っていた。



第二の波 放送衛星プロジェクト

 受注活動
 当時、日本では気象、通信、放送といった3つの衛星プログラムが進行し、NECは気象を、三菱電機が通信を、東芝が放送の各衛星を担当していた。C&C(コンピュータとコミュニケーション)を標榜しているNECにとって、通信衛星の受注が悲願であり、そのために精鋭チームが編成され受注活動をおこなっていた。これとは平行し、社内に放送衛星の受注プロジェクトが発足し、地上装置開発部門からも4人が畑違いながら衛星の受注活動に参加することになった。私もその中のリーダから指名され、新たな分野に参画することとなった。会社としては、通信衛星が主な分野であり、放送衛星は2次的なプロジェクトとして扱われていたが、そのことが幸いし、じっくりと畑違いの分野の勉強ができた。

 放送衛星は、高出力送信機を備えた静止軌道上の人工衛星であり、直接家庭に電波を送信する。今では、BS放送として有名になり、NHKの契約世帯も1千万世帯を越えているが、当時は放送衛星2号(BS-2)による実験放送のみであった。衛星放送サービスを世界に先駆け実施すべく、当時の郵政省やNHKが中心となり実用衛星放送を目的とした放送衛星3号計画が持ち上がった。本計画は「要素技術の調査検討」という研究段階から、概念設計、予備設計を経て、次第に衛星のイメージが固められていった。我々は、米国の衛星メーカと提携しプログラムに参画した。私は打ち合わせのため何度も米国に出張した。当時は、我々も未熟であり技術習得の時期だった。米国側は情報開示について消極的であり何度も悔しい思いをしたが、情報が無いところは自分なりに考え、計算し、また社内の各分野の専門家に聞き、見当をつけていった。当時他社と受注競争を行っていたが、幾つか有利な要因が偶然発生し、いわば棚ぼた式に当社に受注が決定した。受注が決定するまで要した期間は約5年間、本期間中すべて放送衛星プロジェクトに専念していたわけではないが、じっくり衛星設計に取り組めたことは私自身幸運であり、第2の大きな波を乗り越えたときであった。本受注の成果を会社側も認めてくれ、我々のチームに対して最高の功労賞である顕功賞特級を頂いた。

 苦難の始まり
 受注してからの毎日は、それまでの紙の上での世界と異なり、実際のハードウエアを製造する世界であり、失敗は許されない時期に入った。当時の提携先である米国の会社は、別会社に買収され、工場の場所は変わらないものの経営スタイルが大きく変わった。このとき米国企業のダイナミックな一面を見ることができた。私は本プロジェクトの中では、システム設計を担当し、その後、インテグレーション及び試験のまとめを行った。衛星は、2機製造し1機目を米国で、2機目を日本で組み立て試験を行った。1機目の組立試験は、米国のニュージャージ州プリンストンにあるメーカの工場で実施した。このため、私は家族共々米国に移り駐在した。米国での暮らしは、多忙な一面、様々な機会に接することができ貴重な経験を積みことができた。また、駐在中に恩師である宮原先生に、学会の帰りにニュージャージの我が家に立ち寄っていただき、ニューヨークにご案内した。そのときの楽しかったことは、今でも心の中に大切な思い出として残っている。

 米国での作業は、我々が製造した通信システムの試験を行うほか、米国メーカ担当サブシステムの技術習得を行う必要があったが、技術情報の開示に制約がある米国側の対応に苦慮した。米国での1号機の試験期間に幾多の困難があったが、ともに駐在していた宇宙開発事業団及びNHKの技術者の方々には多大なご指導いただき、また苦労をともにしていただいた。1号機が米国工場から、種子島の宇宙開発事業団のロケット射場に輸送されたのは1990年の5月であった。衛星の移動にあわせて、私も米国から種子島へと移動し、3ヶ月の射場作業に参加した。射場では、輸送により衛星に不具合が発生していないことを確認した後、静止軌道に乗せるためのロケットエンジンであるアポジキックモータを取り付け、さらに燃料であるヒドラジンの搭載等を行い、ロケットと結合し、さらに幾つかの試験を行った。真夏の種子島で昼夜を問わず作業を行い、瞬く間に3ヶ月が過ぎた。ロケット整備棟にも何度も上がり衛星の試験を行った。打ち上げ前、最後の衛星状態を確認するために整備棟にあがり、手塩にかけた衛星に最後の別れをした時は、一抹の寂しさを味わった。

 宇宙開発事業団の最終審査を経た後、いよいよ打ち上げの日を迎えた。打ち上げ当日は、射点内にある衛星試験棟で衛星を制御しながら、緊張のなかで高鳴る動悸を抑えつつ衛星に問題ないことを確認し、打ち上げGoの確認結果を事業団に伝えた。もはや、運を天に任せた気持ちで、カウントダウンを見守った。点火されると同時に、保護のために閉ざされた鋼鉄の扉を通じ、ロケット燃焼の轟音が響き、その音につられるように、全員外にでてロケットを見上げた。真夏の晴天のなか、一条の燃焼雲の先に、赤く火を噴くロケットがほとんど真上に見えた。しばらくすると、花びらが開いた様に、ブースターが切り離され、まるで、大空に繰り広げられた壮大なショウーを見るような思いであった。私の9年間の汗と涙を乗せて飛び立っていった衛星を見ていると、涙がとどめなく落ち、自分の分身が宇宙へ羽ばたいていくように思えた。周りでは、涙で顔をくしゃくしゃにした人たちが、握手しあっていた。私にとっては初めての打ち上げ経験であり、受注活動から足かけ9年を費やして初めて宇宙へ打ち上げた感動はひとしおであった。このときには、本当の意味での衛星の怖さは分かっておらず、ただ自分の青春を打ち込んだ仕事をやりあげたという感動に浸っていた。しかし、本当の苦労は、その数日後から始まるのであった。

 プレッシャーとの戦い
 種子島から帰り、会社の自席で、宇宙開発事業団の筑波宇宙センターからの太陽電池展開確認の知らせを待っていた私に上司から電話が入った。太陽電池の発生電力が予測よりも少ないので、すぐ筑波に来て調査をするようにとの指示であった。早々に筑波に移動し、徹夜で調査するとともに、米国と連絡を取り直ちにエンジニアの派遣を要請した。騒然とした中で、衛星の軌道上試験が継続され、それに伴い幾つかの不具合も発見された。すでに、2号機は日本で製造が開始されており、2号機への反映のため、これらの不具合原因の究明が急務であった。衛星からのテレメトリ信号を解析し、フェーリア ツリー(故障の可能性を示した体系図)を作成し、消去法で故障の可能性を絞っていった。さらに地上での試験結果、写真等の調査も行い原因を特定していった。2号機の打ち上げを1年後に控え、原因を究明し反映する事が次なる使命となったが、原因究明作業は、いわば後ろ向きの作業であり、つらい面があったが、2号機では失敗を繰り返したくないという一心で調査を行った。これらの調査の結果を順次2号機に反映していった。
 2号機は、社内で製造され、その後筑波宇宙センタで試験が行われた。1号機に不具合があったことで、2号機の成功は絶対視され、万一失敗したならば、当社社長の責任問題となるというプレッシャの中、筑波で毎日のように苦悩していた。また、当時の科学技術庁長官を始め、関係機関要人の見学もあり、プレッシャーに押しつぶされそうになった。どこまで試験をすれば、不具合をなくせるのか悩んだ。試験はいくらやってもきりがない。論理的に考え選定した試験項目も、それだけで本当に大丈夫なのかということが疑問であった。限られたコスト、スケジュールの中で、成功を確実にすることの難しさを体験した。悩み抜いて最後につかんだ答えは、自分の信じた通りにやるしかないということであった。

 成功の味
 2号機は、1号機打ち上げから約1年後ほぼ予定通りに打ち上げられた。1号機とほぼ同じ手順で作業が実施され、私も1号機と同じように衛星試験棟で打ち上げの轟音を聞いた。1号機と異なることは、これからが出発であると思ったことであった。関係者の努力が実り、2号機はすべて順調に推移し、軌道上の不具合もゼロの状態で顧客に引き渡された。1号機の不具合を経て、やっと成功をつかめた。受注活動を開始してから、足かけ10年の歳月が経過していた。この成功の後、数ヶ月は充実感に包まれ、精心的にも満ち足りた思いであった。
 放送衛星3号は、「ゆり3号」と銘々され、その後7年間の寿命を全うした。この間、衛星放送は、飛躍的に普及し、NHKの契約世帯数も現在1千万世帯を超えたと聞いている。



第三の波

オーストリア ハルスタットにて筆者
 放送衛星プロジェクトが一段落した後、ほぼ10年に渡り、様々な海外プロジェクトを手がけた。受注活動が中心であったが、米国、台湾、韓国、オーストラリア、ロシアを主に担当し、平均年間10回以上海外出張に出かけた。また、後継衛星の監督のため、米国に長期出張し無事打ち上げを見届けたりした。これらの活動を通じて、英語による異文化コミュニケーション術や、交渉術等が必然的に上達したと感じている。

 現在、ロシアの衛星に搭載する通信システムプロジェクトのプロジェクトマネージャを指名され、すでに1年を経過している。すでに何回もロシアの極寒の地シベリアにある衛星メーカに出張し、鼻毛も凍る零下30℃を体験した。また、パートナーであるドイツのメーカにも何回か出張した。放送衛星のような国の開発衛星とは異なり、商用衛星プロジェクトは、納期が遙かに短くまた競争を経て受注したためコストも厳しい。と言っても大きな金額を扱うプロジェクトの責任者としては、休まる事が無く別の面でのプレッシャーは大きい。眠れぬ夜を過ごすことも多々ある。現在、私は第3の波の中で右往左往しているが、これも後で振り返ると大したことではないのかもしれない。



在学生諸君へのメッセージ

 宇宙開発事業もかつての研究開発体質から、商用体質への変革が必須であり、当社ができたのもその背景からである。会社としては当然のごとく利益を上げ存続していかねばならない。私は欧米の会社とその従業員の関係を多く見てきた。従業員は会社に入って仕事をし、給料を貰うという日本人から見れば当たり前のことが、欧米では考え方が異なる。極論すれば、個人はその能力を会社に売ると言う、個人と会社の契約関係で成り立っている。個人が如何に能力を有しているかが、給料を決定する大きな要素となる。従って、会社に対して帰属意識が薄く、能力の向上が望めなくなった時点で会社を移り、より自分の能力を高めようとするし、また高く自分を売ろうとする。この様な労働力の流動性が、企業の活力を高め、また国力を高めている。日本でも従来の終身雇用制から、この様な個人の能力に基づいた雇用関係を求める会社が多くなると思う。私の周りでもすでにこの様な動きが始まっている。 

 在学生の諸君は、社会に出た際には、会社のために働けば会社が助けてくれるということは期待しないで、「自分の能力向上と会社が求める成果を整合させる事」を目指して会社生活に取り組んだ方が良いと思う。会社に入っても絶えず自分の能力向上に心がけることが、結果的に会社で成果を上げられる事につながる。学生時代は貴重な時間であり、勉強のみならず何事にも夢中になり打ち込んで貰いたい。今、学んだこと、夢中になったことは必ず役にたつ。

平成15年3月記
以上





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